2012年9月21日付で本庄高等学院長に就任し、理事との固いお約束の通り、2014年9月20日付をもって満期退任をさせていただく。この間、学院長として最初に実現した「成果」は、早稲田大学HPの「学部・大学院等」のページ、「附属校」の項、「高等学院/高等学院中学部/本庄高等学院」と列記されているうち真ん中の「...中学部」を、一角右に引いてもらうことであった。早稲田大学では折にふれて「建制順」が重視されるが、本来なら「高等学院/本庄高等学院/高等学院中学部」と表示すべきところ、これで妥協をした。
爾来、既に準備されていた創立30周年記念式典等を行い、さまざまな課題に取り組んだが、為すべき事柄はすべて為した、ないしは着手し得たと自負している。最後に実現したのが、本庄学院の専任教員の中から学院長が選出されることで、就任前から、次はそうあるべきと強く考えてきたことである。学院長を引き受けたことについて、本属箇所の文学学術院教授会で、「理事会の回し者」「本庄の代官」になるとは恥ずかしくないのか?と私を揶揄した同僚M教授も、後任人事については「民主化実現」と高く評価してくださった。
新たに学院長となる吉田茂教諭は、大学院教職研究科の併任の教授でもある。「大学の教員」が学院長に就任するという規則にも、さしあたり違反しない。
理事会が何故、私を学院長に任命したのか、未だによく分からない。箇所長に就いたのは最初で最後、これまで第一文学部学生担当教務副主任、図書館副館長、第二文学部教務主任、学生部参与、文学学術院の副学術院長と務めたが、考えてみると角書きには常に「副」ないし「第二」が冠されていた。私自身の栄光のキャリアは間違いなく土田健次郎学部長のもと、第二文学部の教務主任を務めた2年間。語弊を恐れず申すなら、本庄も(ご立腹の向きもあろうが)「第二」学院と思えば、実績が買われたということか? とにかく「第二」は、「第一」との差別化を徹底してはかり、あくなきチャレンジ精神で、「第一」を圧倒するぞとの気概を持つことが肝要である。であるから、本庄で用いた手法は、二文教務時代の成功体験の方法論そのものなのであった。
諸方面の協力を得て、大隈重信胸像を移設し、オリジナルグッズを開発、情報発信のベースとしてHPのリニューアルも果すことができた。何より助かったのは、本庄の学院生は、早稲田に対する愛校心が異様に強いことである。本庄にしかない特質を、そのままに発信し続けて行けば、その良さをアピールできるはず。ますますの発展を祈念したい。
本庄 武蔵野は西北の果て紺碧の空大好きと若きら集ふ
学院長/文学学術院教授 兼築信行