本庄高等学院は自然に恵まれ、約86万㎡という広大なキャンパスをフィールドに、「森に想い土に親しむ」教育が実践されているはずである。しかし昨今、生徒諸君の視界はスマートフォンの画面上にフィックスされ、その感覚や意識自体、LCD画面を通じて常に世界と繋がっているといって過言ではない。それだけでよいのか?と学院長は思う。こうした現代の情報環境のもとで、自分自身と向き合い、徹底的に掘り下げるという思念が、果して作動するものだろうか?
スマホのように四六時中他者と繋がっていられるツールが存在しなかった昔は、人間のあらゆる接触は、直接的で生々しいものであった。だからこそ、会者定離の瞬間・瞬間に、茶人たちは一期一会の意味を深く味わおうと心掛けたのである。
突き詰めれば、生命現象は電子の働きであるという。されば、スマホを通して広がる世界も、世界に変わりは無い。だが注意しておきたいのは、その世界は、他者により徹底的に加工され、操作され、支配される世界に他ならない点である。そこへ飛び込む人は、相当なリテラシーを身につける必要がある。
何事も程度問題なのだと思う。寺山修司に「書を捨てよ 町へ出よう」という作品がある。便利な情報端末に習熟することも、現代社会を生き抜くためには必須である。その一方で、生々しく、予測不能に、体と体、意識と意識とがぶつかり合う体験も重ねておかないことには、人間としての健全な平衡は、担保できないのではあるまいか?
スマートフォンを自室の机上に措き去りにし、いくばくかの現金を握りしめて、見ず知らずの土地へと独りで小さな旅に出掛けることを勧めたい。メーテルリンク(Maurice Maeterlinck)の「青い鳥/L'Oiseau bleu」が示唆するごとく、いま生きている場の価値も、遍歴を経てこそ初めて理解することができるはずだから。
学院長 兼築信行