萬夢志(まむし)の呟き

元本庄高等学院教諭・高橋聡君のこと

投稿日:2013年11月11日

今年の稲稜祭にも、本庄高等学院の元国語科教諭だった高橋聡君が、訪ねて来てくれた。ちょうど、東京三田にある三味線寺「大信寺」のご住職中村孝之さん(元航空自衛隊パイロット)が、空中撮影のためセスナ機で大久保山上空へ飛来した時だった(10月27日)。

創立30周年記念式典の式辞の中で述べたように、高橋聡君は、松江から上京し大学へ入った私に、最初にできた早稲田の学友であった。彼は麻布学園から第一文学部に進学してきたのだが、ともに全く同じ科目登録間違いをしでかした。マークシートで上野理教授の担当科目を選んだつもりが、他の欄にマークしてしまったのだ。うちしおれて上野教授の研究室に相談に行くと、彼がいた。一緒に始末書を提出し、変更してもらったのが機縁となって、万葉集を読む研究会を作り、上野教授には顧問になっていただいた。その研究会は、私の隣の研究室の高松寿夫教授(専門は万葉集)が引き継いで、現在も続いている。

高橋君は実に滅茶苦茶な男で、一緒に死にかけたこともあった。万葉旅行と称し、飛鳥へ行こうと深夜、東名高速道路をぶっ飛ばしていた。トンネル内でポルシェに追い抜かれ(当方中古のカローラだった)、一瞬見とれ、すんでのところで側壁に激突しそうになった。大学へは時々、着物姿で風呂敷包みを抱えてやってきた。当時早稲田は大学紛争の余波が残っており、バリケード・ストライキを目撃した私は最後の世代になるだろう。着物姿の高橋君は教授と間違われ、■●派にバリケード内に入れてもらえなかった。後からクラスの■●が、「彼は学部1年生だ!」と説明して、入れてもらったそうだが...。

これは私が大学院生だった頃の話。研究室へ遊びに来て酒を飲み、酔っ払った高橋君が、給湯室のガラス扉に突っ込み血まみれになった事件も起こった。やって来た救急車に、付き添いとして私も乗り込もうとしたところ、金が無い。「怪我人だァ。金を出せ~!」と大声で叫んだら、周囲の野次馬が次々と財布を出したのは、今にして思えば面白かった。拠出された4万円ほどをひっつかんで、救急車に乗った記憶がある。

高橋君は神奈川県の教員採用試験を受け、面接で喧嘩して帰ってきた。採用されるはずはない。そして志木の立教高校の教諭となったが、祭壇を仏壇と言って物議を醸したと自慢していた。中国が好きで、早稲田の訪中団に加わり一緒に中国旅行へ行った。上野教授が次はイランか北朝鮮だと言い出されたので、北朝鮮へ一緒にお供したこともある。

その彼が本庄高等学院の教諭になったのは1986年のことであった。第三代学院長の榎本隆司先生には、専門が同じ日本近代文学ということもあって、可愛がられていたと思う。

ところが、大学で行われた会議の帰路、熊谷駅のホーム上で不慮の事故に遭い、療養に努めたが、ついに退職をせざるを得なくなったのは残念だった。

2012年9月に学院長に就任し、挨拶状を送ったところ、稲稜祭に行くとお連れ合いの祥子さんから連絡があった。やってきた高橋君は、車椅子から立ちあがって、数メートル歩行してみせてくれた。それが今年の稲稜祭では、学院長室から美術室のところまで、100メートル近く、背中を押されながらであったが、歩いて移動したのには驚嘆した。

高橋君は実に本庄高等学院を愛していた。顧問をしていたブラスバンドの定期演奏会には時々顔を見せていたらしい。これからも稲稜祭には毎年、学院を訪れて欲しい。高橋君の教え子も何人か、専任として着任している。そして、リハビリの効果が劇的に出ることを、心底からお祈りしたい。


学院長 兼築信行

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